つわりの話:真の母神話崩れる
東京に住む次女が懐妊し、つわりの事情で、しばらく実家で過ごすことになった。
小腹が減ると吐き気がするが食べられる物が非常に限られていて、仕事にも支障が出て困っていると。
「お母さんの手料理なら食べられる可能性があると思っている」と家族ラインに送られてきた。
お、ついに素晴らしい母親像の出現か!ソレ私のこと?と内心くすぐったい気がしたが、一方ネットでそんなテキトーな情報を見たのかもしれないと一歩引いて怪しんでおいた。
実家に転がり込んだ娘は、私の素朴な料理でも結構おいしいと食べてくれた。仕事はフリーランスのノマドワークだから実家にいてもでき、気分の悪さも峠を越えてきたようで良かったが、こんなことを言い出した。
ーー何が食べられて、何が食べられないのか、その基準は何なのか考えているんだけど。
自分が作った料理は食べられず、旦那が作る凝った味噌汁その他の料理もダメで、友人が作ったグルメカレーパーティーの時もダメだった。
一方、旦那の仕事仲間のお婆ちゃん(祖母)が作ったというオニギリを持って帰ってきた時は食べることができた。旦那が実家から持ち帰った義母が作った料理も食べられた。お母さんの料理もOKだった。
これらのことを考え合わせると、若い世代が作った物は食べられず、高齢の人が作った物だと食べられるという結論に達した。これはほぼ確定で、この結論は覆されることはないだろうーー
こちらは理想の母親像から唯の高齢者に転落してしまったようだ(笑)。
そうだろう、そうだろう、こちとらどうせ高齢者だよ。
ノリついでに言うと、高齢者はもう胃腸が弱くなっているから、作る料理もサッパリした物が多くなる。それでつわり最中の人の口にも合い易いのだろう。子供時代に高度成長期以前の貧しい昭和の食卓を経験しているから、粗食の献立のイメージも懐かしくて湧き易い。どんなもんだ、エヘン(死語)。
やっぱり、実の母親が作るものはつわり中でも食べられるなどという母親神話はないな。
怪しんでおいてよかった。そうでなければ、がっかりショックで心を閉ざすことになっていたかもしれない。なんてな。
素晴らしい母親・真の母(聖霊の実体w)の幻想を自らの心の中核に置き、散文的な現実の自分や隣人を愛せなくなって世界から孤立するよりも、ありふれてありのままの高齢者の1人として自らを受け入れ、世間の中で実存を生きる方が、なんぼかよかろうて、のぅ。
関連して、興味深かったブログ記事、
「元36万双の日記」さんの 『自己牧会批判』 より
内田樹氏の著作の中から「愛神愛隣」、これを引用してみたい。
私たちの時代において、「隣人愛」というのがほとんど死語となってしまったのは、私たちが自分自身のことを愛するのに夢中で、隣人のことを意に介さなくなったからではない。
自分自身を愛するというのがどういうことだかわからなくなってしまったので、隣人を愛する仕方もおのずからわからなくなってしまったのである。[略]
その理由はおそらく、「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」を想定して、それに他のすべてが従属している状態として自我をイメージしているからである。
私はそう思う。
「ほんとうの自分」とか「自分らしいピュアな自分」とか「世界でひとりだけの真に私らしい私」というようなものがどこか自分の内部の洞窟の奥に秘蔵されていると思いなしている人間が(たくさん)いる。彼らは、そのせいで雑多な人格要素が星雲状態でぐちゃぐちゃと混在している現実の自分をそのまま愛することがうまくできなくなっている。[略]
自分自身を愛するというのは、自分自身の中に存在するさまざまな「不快な人格要素」となんとか折り合って暮らしてゆくということである。
隣人を愛するというのも、それといっしょである。
あ
「愛する」とは十全な理解と共感に基づくものではない。そうではなくて、なんだか「よくわからないもの」を冷静に観察し、その「ふるまい方」のパターンをよくわきまえた上で、涼しい顔をして受け容れることである。
その訓練を私たちはまず自分自身について行うのである。
おのれのうちなる他者と共生することのできる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力にまっすぐつながっているのである。
(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』内田樹 274-276頁)
上で示されているのはとても身に覚えのある状態です。
さすが、全てに的確な言葉遣いをしていると感じます。例えば、
>その理由はおそらく、「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」を想定して、それに他のすべてが従属している状態として自我をイメージしているからである。
「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」を想定” するまでは別にいいのだと思う(そのかわり常に見直し/更新し/新しくすることが必要となるが)。それは宗教や芸術、心を扱う至る所で見られることで、人間精神の一つの特徴と言える。それすらも断罪するなら、行き過ぎたお左翼さんのようになってしまうだろう。(例:作品を燃やすcolaboなど)
問題なのは、後半に書かれた“それに他のすべてが従属している状態としてイメージする” ことなのだ。
旧統一教会はそのように誘導・教育していた。いわゆる絶対信仰・絶対服従というやつですね。
これは自分で選んでそういう精神状態になったのだとしても、内田樹氏の引用にあるように、程なく悪い結果; 愛のない環境を作る方向に行かざるを得なくなるので、早急に脱する準備にかかった方がいいと思うのです。
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