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統一教会の訪問者、元信者の気持ち。後半1


http://anzais.blog.fc2.com/blog-entry-332.htmlからの続き


統一教会の訪問者、元信者の気持ち。後半1


前回より:
「どうですか、最近は。御言葉など何か勉強されてますか?」

してねーよ。そんなの、してるわけがない。知ってるくせに。
私は、以前住んでいた県営住宅のドアの前でのA氏とのやり取りを思い出していた。



もう10数年前になるだろう。
ーーその時もA氏は、「用事で近くまで来たので立ち寄ってみた。長らく会ってませんが、たまには教会の方にも顔を出して下さい」とか何とか言ったと思う。

私は答えた。
「統一教会は、世にいろいろある宗教団体の1つじゃないですか。私はそう思っているんです。多くの宗教団体の1つに過ぎないので、絶対に行かなくてはならないわけではないでしょう」
だから行かない、行かなくても文句を言われる筋合いはないと、論理の次元で追求を交わしたかったのだが、うまくいかなかった。

「えっそれは違いますよ。お父様の摂理は世界規模で歴史を復帰していくものですから。そんな、世にある宗教団体の1つなんていうものでは断じてないですよ。再臨のキリスト・メシアとして確実に歴史に残る歩みをされているんですから。」

「でも、今までの摂理(活動)はほとんど、その場限りではないですか。その時その時に都合がいいだけの」
もうそんなことに人生の時間やお金を費やすつもりはないのだ。

「いえいえ、そんなことはありません。着実に将来歴史に残っていきますよ。近いところで言えば、知ってますか、お父様がなされた“エルサレム宣言”。
文先生主導の下、キリスト教の牧師たちが自分の教会の十字架を下ろしてエルサレムの土に埋めたんです。そしてユダヤ教のラビたちも一緒に平和宣言をしたんです。知ってますか?」
(注:統一教会の教えでは、「イエスは十字架にかかるべきではなかった。十字架は本来、神の願いではなかった」とされている)

「フンッ はいっ。それにちなんで、最近小説本も出たましたよね。十字架嫌悪シンドロームが世界中に広がったとかいう触れ込みの」


その本の題名は『イエスの涙』(と『マリアの涙』)。
ナニ、話題本? 読んでみようかと思い、図書館で借りてきて読み始めたが、面白くないので、見開きページの右上から左端下までスーッと対角線を描く、絵に描いたような斜め読みになりました。小説読みたいのに、読む気満々なのに、おもんなくて読めないという欲求不満が残りました。(作者には悪いけど、まあいろいろな読者がいるからw)

「へ〜(そうですか) よくご存知ですね…」
どうやら奴さんは知らなかったようだ。まあネットを見てなければそんなものかもね。

私は反撃に出た。
「近くの教会の屋根の上の十字架、全然下ろされていませんけど。その十字架撤廃運動も、そのうちあやふやになって、なくなってしまうんでしょうよ」

「とんでもない。これからですよ。お父様の御言葉に従って、世界中でどんどん十字架が降ろされているのですよ。2000年続いたキリスト教から十字架がなくなるなんて、すごいことです。これこそ世界史に残る出来事ですよ」

「そんなに言うなら、じゃあ数年後にAさんに聞いて確かめますよ、どうなったか。それでもいいですね?」

「ああ、もちろん、いいですよ。摂理は発展してますよ」

アレ、いいのか?〈何も知らない罪のある私たちが、お父様の世界摂理に後からあーだこーだと批判すべきではありません〉とかなんとか言った方がいいんでないか。ああそうか、数年後に言うようにとっておくのか…

そして何やかや会話があった後、私が全く教会に行く気もなく否定的であることを認識したらしいA氏は、
「ああ、どうして、そんなになってしまったんですかぁ」
「せっかく長らくがんばってきたのに、もったいないじゃないですかぁ」
と彼自身に寄せて嘆いた。

は?もったいない?
私とA氏は祝福双も同じ、年齢も同じ。場所は違えど同時代の教会の教育を受けてきたはずなので、なんとなくは分かる。教会内で(わりと)先輩格になっていることが誇らしいのだろう。このままいけば霊界でもいい位置に行けるはずなのに…って? 違うか?

私は当時は真理探究中というか、自由に探求できるのが嬉し楽しく、「もったいない」と言われても、個人的には全くピンとこなかった。

ただ私もよく考えてみれば、離教後の一時期、統一教会からの影響の流れでキリスト教的な一神教の神を信じることを既得権益のように感じていた時期があった。キリスト教の神を信じられるなんて、日本人としては貴重で優れている、誇らしい、自分だけは真理を知っている…と、意に反して上から目線になってしまう。
神を信じることを既得権益のように思うなんておかしいのではないかと当時自分でもふと思ったが、その時はどうにもできなかった。

根拠のない実体のない既得権益だが、既得権益とくれば、手放すのが惜しい → もったいない。という感情に繋がる。だからあまり人のことは言えまい。
(しかし私はもうその頃とは大分変わったと思う。“既得権益”を手放したのだ。統一教会の信仰の中にいると、精神の手枷・足枷・座敷牢で、自身の成長がない、変われない、魂の喜びがない。だから嫌だってんだ)
※神を信じること自体の是非について言っているのではなく、あくまでもその人間主体の心理について言っています)

とにかくA氏はその時、「もったいない、もったいない」を繰り返し、人を哀れな又はおぞましいものでも見るかのように、
「あ〜ぁ、何でこんなになってしまったんだか…」
とまたブツブツ言った後、矛先を変えてきた。
「ご主人さんはどう言っておられるんですか?」

(同じだよ、ばーか)

「どうって、同じですが?」
と言っても、なかなか信じてくれない。
「それってこの際、関係ないでしょう」
と言ってみても、納得がいかない様子。
「今、会社で家にいませんが、なんなら夜にでも電話してみればいいじゃないですか」
と言うと、「じゃあそうさせていただきますから」
A氏はやっと帰って行った。

数日後の夜、A氏から電話がかかってきた。
旦那は「……妻と同じですよ。……そういうことは家内に任せていますから……」などとあしらっていた。
そのうち、相手はまだ盛んに何か言っているようだったが、「そういうことはもういいですよ……では明日早いので」とさっさと電話を切ってしまった。
A氏は撃沈したようだ、おかわいそうに…


今回のA氏の訪問は、その時以来のご無沙汰だった。
あれから世界のキリスト教が十字架を撤廃する歴史的な出来事が起こったかどうか、意地悪な質問をしてみようかと一瞬思ったが、やめた。
A氏は忘れているに決まっている。(私だって忘れていた)。もしくは誤魔化すに決まっている。そんな質問は徒労だ、徒労。バカバカしい。答えはもう出ている。


「どうですか、最近は。御言葉など何か勉強されてますか?」
私は「してませんよ」とだけ答えた。
すると奴さんは懲りずに「自叙伝が出たのを知ってますか?」
と聞いてきた。

長くなってしまったので、後半2に続きます。
ダラダラしてしまい、すいません。




再掲:
脱会直後の元信者・元献身者の歌です。
または出奔した2世の歌か、それとも“既得権益”を手放す歌か。
最後まで聞いてね。(唯物論ではありません)

ニーナ・シモンの名曲、カッコイー!
69年、ハーレム,NY. 伝説の野外ステージです。






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コメント

No title
凄いです。ニーナ・シモン。まあ「愛のコンチェルト」で有名ですが?信仰は、こう、ありたいです。

暗殺されたキング牧師についての曲もすごい
コッキーさん、ありがとうございます。
ニーナ・シモン、すごいですよね。

ニーナ・シモンの代表曲はたくさんありますが、
今日は阿倍氏の国葬の日、
"WHY? (THE KING OF LOVE IS DEAD)" がすばらしいです。
キング牧師が暗殺されてすぐにできた曲です。
キング牧師の説教の内容や聖書の言葉を歌詞に入れて、しめやかにモダンブルース調。

https://youtu.be/9oCbFFwC8Ek

歌詞日本語訳はこちらに
http://osakamonaurail.com/nakata/2018/04/why-the-king-of-love-is-dead-1968.html

安倍元首相についても、こんなふうに曲にするミュージシャンがいないかな………


愛のコリーダ、じゃなかった、愛のコンチェルトは、リチャード・クレイダーマンでは?

No title
失礼、サラ・ボーンと勘違いしてました。「ラバーズ・コンチェルト」でした。

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