“為に生きる” は間違っている!?
“自分を役立てる” との違い
「ずっとやりたかったことをやりなさい」
統一教会(家庭連合)で、キャッチフレーズのようによく言われる「為に生きる/ために生きよ」という言葉は偽善であり、間違っていると思います。空回りしかないです。
「為に生きる」は根底に上から目線があります。
人のためだと言って何かをして、結局は自分が上の立場になろうとしたり。
統一教会の場合は特にそうで、最初は人に尽くしても、結局は、教団や教義やその運動方針を飲み込ませる手段でしかなくなっています。
人の為と書いて「偽」となります。
福島大学教授の飯田史彦氏は臨死体験をし、その際、霊界で光の霊存在に何度も尋ねます。
「為に生きることが人生の目的ですよね?」
そしてその都度否定される興味深い場面があります。
『ツインソウル、死にゆく私が体験した奇跡』より
(112〜117ページから抜き書き。中略は“・・・”で表しました。
引用中、「私」とは飯田氏のこと、「光」とは眩い光を発する高級霊/指導霊/光の同志たちのことです)
私は、人間社会で「生きがい論」として発表してきた著書の中で、どうしても、うまく言葉で表現できなかったことについて、ひとつずつ、問いかけてみました。
私「人生とは、何なのですか?……つまり、人として人生を生きるというのは、どういうことなのでしょうか?」
光「物質世界のものに例えると、山を登ることに等しいでしょう」
私「それは、人間社会でも、すでに大昔から言われていることであって、ぜんぜん目新しい説明ではありませんよ」
光「私たちは、人間社会でいう太古の昔から、いつでも、同じ例えを用いて、同じメッセージを伝えてきました。したがって、あなたが求めていらっしゃるような、目新しい教えなど、なにもありません」
・・・
私「それでは、はるかな昔から説かれている教えのように、人は、ひたすら、世のため人のために、生きるべきなのでしょうか?」
光「いえ、そうではありません。教えは、時に、人間的な解釈を加えられ、誤解されてしまいます。人は、決して、世のため人のために生きるべきではありません」
私「えっ!?……では、誰のために?」
光「山は、ほかの誰かのために登るのではなく、自分のために登るのです」
・・・
(つづき)
私「しかし、『世のため人のために尽くす』ということは、『自分以外の人々を愛する』ということですから、それこそが、まさに人生の目的ではないのですか?」
光「そのような考え方こそが、理屈にとらわれた、いかにも物質世界的な思考様式だと言えるでしょう」
私「自分以外の人々を愛しながら、世のため人のために生きるというのは、人生の目的ではないのですか?」
・・・
光「何よりも大切なことは、まず、おのれの魂が、その人生を生きることを選んだ、その人物を愛すること……つまり、自分自身を愛するということだからです」
私「まず自分自身を愛し、その次に、ほかの人を愛するよう努力すればよい、ということなのですね?」
光「そのような考え方もまた、理屈にとらわれた、いかにも物質世界的な思考様式だと言えるでしょう。真理は、あなたが論理的に整理しようとするよりも、はるかに単純で、純粋なものなのです。愛の対象には、優先順位などありません」
私「そうおっしゃられても、」・・・
光「『人生の目的とは、自分の成長のために、自分なりの学びを積むこと』だと言えるでしょう。ほかの誰のためでもなく、すべては自分のためなのです。しかし、真に自分にとって価値ある学びを積もうとする人ならば、その学びの過程そのものが、ごく自然に、そのままで、世のため人のためになることでしょう。 したがって、『世のため人のために生きよう』と考えるまでもなく、まず『真に自分にとって価値ある人生を生きよう』と考えるだけで、『自分のために生きること』が、そのまま、『世のため人のために生きること』にもなるはずなのです」
私「なるほど」
・・・引用ここまで
ここで光の存在が言う学びとは、単に知識の勉強だけでなく、幅広い体験を通じた学びであり変容のことでしょう。
スウェーデンボルグは、『天界と地獄』の中で、
「天界の喜びはみな、自らを役立てることに結びついており、自らを役立てることの中にあります」
と書いてます。
光の存在が表した「自らの学びの過程そのものが自然に世のため人のためになる」と共通します。
「為に生きる」のような上目の紐付きの思いではなく、誰かの何かの一部として役に立てればそれでいいという、地に足が着いた純粋な気持ちとしての「役に立ちたい」。
その違いは、言葉自体にあるのではなく、自己の立ち位置や背後の世界観にもあるようなので、分かりにくいのですが。
オール統一は特に分かりにくいと思います。私も分かりませんでした。その二種をごった混ぜにしてしまいがちです。
自分のこととして深掘りすると:
現役時代、「為に生きる」は、何か納得できず、その場の流れに乗れませんでした。伝道(人集め)や万物復帰(金集め)にしても、それが相手の善なる条件になるとかで、為に生きるの一環でしたが、何か納得できないのでうまくいきませんでした。
問題は、当時の忸怩たる思い、くすぶったような心的状態が時空を超えて無意識領域に存在していることです。
それは、自分を恥じる、虐める、否定する、受容しない、自己評価が低くなってしまう状態で、何かの時に障害として出てきます。
違いをはっきりとさせ、自覚して、「うまくいかなかった、、できなかった(→だから自分はダメだ)」ではなく、主体的に「納得できなかったのでやらなかった」と、現在の気持ちを「そういうことはやりません」とはっきりさせたいと思います。
そうすればスッキリして、「では何をやりたいの?」と自分自身に問いかけることができます。
為に生きる”でなく、こんな、さりげなく緩やかなのがいいなあ
吉野弘の詩「生命は」
生命は 吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻あぶの姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
詩集『風が吹くと』1977年
***
おまけ
『ずっとやりたかったことをやりなさい』
という本を読んで、提唱されているモーニングページをやっています。
ここでは、世俗化して説明されてしまっていますが…
参考
“為に生きる”と“役に立つ”の違い、秀逸な考察。
興味のある方は是非お読みを。
【違う】人の為と思う時と役に立ちたいと思う時
https://takehisayuriko.tokyo/2018/12/20/3775/
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為に生きる”でなく、こんな、さりげなく緩やかなのがいいなあ
吉野弘の詩「生命は」
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生命は 吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
詩集『風が吹くと』1977年
ーーーーーーーーー
以前コメントさせていただいた元二世です。
幼い頃からJr.STFの内容などで為に生きるとは押し付けのように感じていました。
どこかエゴを感じざる得なかったのは結局は浮ついた組織のための価値観だったからだと思います。
これからもブログを応援しています(^^)♪
表現してくれて、ほんとにありがとうね。
これからもよろしくお願い申し上げます。
※※
この機会を利用させていただき、追加のメモをここに書いておきます。
“光の存在”が言ったという「人生は山登りのようなもの」についてですが、
なりたい自分を目標にして一生懸命努力しながら上り、山頂を目指すイメージを抱きがちですが、
それだとやはりいつまでたっても辿り着けない構造です。(それも光の存在が言う“いかにも地上的な間違った解釈”の一つなのでしょう。「なりたい自分」と言えば、必ず裏に「そうなれていない自分」の存在があるわけです)
それよりも、
自分は最初から山頂にいると考え(なりたい自分を考えるのをやめて、手放して)、そのままを認めて川下りしてゆくとイメージした方がいい感じです。
それは自分の水源にも繋がるし、広い海(可能性)にもつながっているわけです。自然に輪(和)が広がります。
人生は山登りよりも、内側の深い意識での川下り。
「人生のシフト センタリング」という本を読みました。
自分をキュッと内的中心に戻すきっかけを与え自覚を促してくれたとてもいい本でした。
(心の問題ですから、万人に合うとは限りません)
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