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嘆きのカウサ兄弟「関わらなきゃよかった」ボリビア・クーデター/9-11

『こんなカウサCAUSAはイヤだ! ボリビア コカイン•クーデターに動員』からの続き




「関わらなきゃよかった」ボリビア・クーデター
嘆きのカウサ兄弟



80年代〜90年代、
「ついに、最初の国家復帰がなされそうだ!」
と教会から何度も聞いたことはありませんか?
「アフリカの 南米の 南アジアの どこそこの
聞いたことのない小さな国で 政界のトップ層が復帰され
信じられないほど 摂理がバンバン進んでいる!」
でも、しばらく経つと、いつも、
「あそこは政変が起こって、すべての基盤が無に帰した」
となるのでした‥‥

以下は全く語られることのなかった悲惨な一例です。
当時のカウサ責任者の食口トム・ウォードの「関わらなきゃよかったんだ」という心の叫びが、人類の集合無意識に鳴り響きます。





   龍明小説9-11



こうして、元ナチスの逃亡犯に組織されたコカイン•クーデターの勝利により、民主的な選挙で選出された左派政権は倒れ、ボリビアには麻薬密輸業者(麻薬王)に恩義のある右派の軍事独裁政権が誕生した。

早速、文鮮明の右腕の朴ポヒが、新政府樹立の祝賀のために山岳地帯の首都ラパスを訪問し、
「私は世界で最も標高の高い都市に、尊父•文師のために玉座を建てた」
と宣言し、新政権のガルシア・メザ大統領と会っている写真を発表した。

その後のボリビア政府や新聞の報道によると、文の組織がクーデターの準備に約400万ドルを投じたという。
ボリビアのWACL代表も重要な役割を果たし、文の反共組織の1つであるカウサは、ボリビアのクーデターの有力者のほぼ全員を会員として登録していた。
(ここまでの内容は前回より)

クーデターの後、逃亡ナチスのクラウス・バルビーに勧誘されたネオ・ファシストの部隊はやることがなくなったが、ボリビアの主要なコカイン王を守り、国境まで麻薬を輸送するという新しい任務を得た。
彼らは新内務大臣と共に「我々はアメリカの国境をコカインで溢れさせる」と自慢したという。

麻薬王たちがボリビアでの勢力を強めるにつれ、文鮮明の統一教団もその存在を拡大していった。

「カウサ」は、国全体で政治的な布教活動を始めた。
ボリビアの情報機関の報告書によると、5万冊の統一教団の本が米空軍機でラパスに運ばれたという。
思想的な啓蒙とともに、武装教会のための反共人民軍の教育も始まった。


ボリビアの文鮮明グループのリーダーは、アメリカ人信者のトーマス(トム)・ウォードだった。
いつも祈りにふけっているような青白い偏屈な禁欲主義者と表されている。統一信者は外からはそう見えるのだなと面白い。もっとも南米の荒くれクーデター関係者からすれば、西洋人は誰だってそのように見えるのかもしれない。



ドイツのジャーナリスト・ヘルマンの報告によると、1981年の初めには、CAUSAのリーダーであるトーマス・ウォードが現地に到着していた。クーデターを起こすために派遣されたアルゼンチンの諜報員アルフレッド・ミンゴラ中尉は、ウォードをCIAの給料係と表現しており、ミンゴラの1500ドルの月給はウォード代表のCAUSA事務所から支払われていたという。[CAIB、1986年冬号]


戦犯のバルビーとトーマス・ウォードは、よく一緒にいるところを目撃されている。ある時は一緒に祈っているような姿が目撃されたという。(ナチスにも「一緒に祈りましょう」。伝道熱心かッ)


文氏の組織は、ボリビアで新たに得た影響力を誇示し続けた。1981年5月31日、ラパスのシェラトンホテルの「自由の殿堂」で、文が主催するCAUSAの大会が開かれた。


200人の招待客を前に、文の副官朴ポヒとボリビアの実力者ガルシア・メザ将軍が、暗殺未遂に遭ったロナルド・レーガン大統領の回復を祈ることから始まった。
朴はスピーチで「神は南米の中心にあるボリビアの人々を共産主義を征服する者として選ばれました!」と宣言した。

後のボリビア情報機関の報告書によると、カウサはボリビア人の「武装教会」を募集し、約7,000人のボリビア人が準軍事的な訓練を受けていたという。


しかし、軍事政権のコカイン汚染は非常に深刻で、汚職も蔓延していたため、81年後半にはアメリカとボリビアの関係は悪化し限界に達していた。

「文鮮明教団は、ボリビアに来たときと同じように、一晩でボリビアから秘密裏に姿を消した」とヘルマンは報告している。民政復帰を目指すボリビアの情報機関に残ったのは、ウォードをはじめとする数人だけだった。

クーデターのリーダーたちも、すぐに逃げ出してしまった。
内務大臣のアルセ=ゴメスはマイアミに送還され、麻薬密売の罪で30年の懲役を科せられた。
麻薬王のスアレスは15年の禁固刑。ガルシア・メザ将軍はボリビアで権力乱用、汚職、殺人の罪で30年の刑に処せられて逃亡者となった。

ナチスSSのベテラン、バルビーはフランスに戻され、戦争犯罪で終身刑になった。(91年に77歳で獄死)


1982年3月初旬、アルゼンチンの諜報員ミンゴラは、ラパスのホテル・プラザのカフェテリアで、文鮮明信者(CIAのエージェント)ウォードと出会った。
ミンゴラのCIAでの活動は静かに終了していた。
ミンゴラはウォードに声をかけた。
「まだ何かやってるのかい?」

トム・ウォードは諦めたような顔をして、アルゼンチン政府は終わったと言った。
「アルゼンチン人はボリビアで多くの失敗をしてきた。あなたたちの立場は全部、あまりにも反動的なんだ。バルビーとの関係も、ファシズムとナチズムの件も、すべて行き止まりだった」

ボリビアでの活動に落胆していたウォードはこう不満を漏らし、コーヒーを飲みほした。そしてアルコールを注文した。

ミンゴラは、この偏屈な禁欲主義者が急に酒を飲み始めたことに驚いた。

「ヒトラー時代の旧来のドイツ人と一緒にやっても新しい秩序は作れないさ。きみらは何か現代的なものを見つけなければならんだろうな」
狂信的なナチスのミンゴラでさえも、新しい風を吹かせ始めていた。

トム・ウォードは、アルコールの影響もあって、自分自身を厳しく批判し始めた。
「統一教会とカウサがここにいたのは馬鹿げていた。関わるべきじゃなかったんだ」

ミンゴラは戸惑った。
「そんなことを言うのか? きみはここの全体のボスで、宣教師のトップなのに‥」

...数日後、ウォードはアメリカへ、ミンゴラはグアテマラへ飛んだ。...

コバート・アクション・インフォメーション・ブリテン第25号
[CAIB, Winter 1986]

さて、南米初の麻薬国家となったボリビアの産業は廃れ、世界の最貧国となって久しい。

しかし、文鮮明の組織は、コカインクーデターの代償をほとんど払っていない。
1982年には、米国の保守系政治会議に資金を提供したり、超保守系の『ワシントン・タイムズ』を創刊したりして、レーガン大統領をはじめとする共和党の有力者たちに便宜を図った。また、南米での政治経済基盤の構築も進めていった。


(*これらの内容は、米国国立公文書館の情報公開を受けた米国ジャーナリスト複数の記事からの要訳です)。巻末参考資料参照。


***
単純な感想:
私が献身した頃の話だなー、
まあCIAの顔色を見て、現地入りしている食口たちに緊急撤退命令を出したのだろうなー、
無責任だなー。

トム・ウォードは天一国委員ではありません。あれはトム・ウォルシュです(笑)
でも年格好も責任分担(勝共や統一神学校関連)も同じで似ています。
西洋人で唯一の天一国委員になれた方(トム・ウォルシュ)は、もっと秘密の任務をこなしたのかもしれません。

飲酒のウォードは最後、アルゼンチンの諜報員だか拷問科学者だかに牧会されちゃったね。
「きみは宣教師のアベルなんだから、そんなこと言っちゃダメだよ」なんて(言ってないか)

一日中「F」(物売り)を歩んだくらい疲れる話でした。
こういう話題は多くは読まれないと思うとなおさらです。




  参考資料



https://tragedyofthesixmarys.com/moon-in-south-america/
bolivia

https://archive.org/details/pdfy-xGyFKQCjORitMNOE/mode/1up?view=theater&q=ward

http://www.consortiumnews.com/archive/moon6.html


追加メモ:ロバート・バリーの記事より
この時期、CIAは右派の陸軍将校と協力して左派政権を追放する活動を積極的に行っていた。このような反共主義の流れの中で、ムーンは南米で活動するようになった。1965年に初めてアルゼンチンを訪れ、ブエノスアイレスの大統領官邸ピンクハウスの裏手にある広場を祝福した。その後、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ボリビア、ウルグアイでハイレベルなコンタクトを取るようになった。

コカの産地に近いボリビアでは、ナチスの逃亡者クラウス・バービーがボリビアの諜報員として働いており、中央の国を右翼政権の「安定軸」に加える一揆の計画を練っていた。バービーは、アルゼンチンの諜報機関に助けを求めた。

最初に到着したアルゼンチン情報部員の1人は、アルフレッド・マリオ・ミンゴラ中尉だった。

アルゼンチン人は「彼が麻薬の売人として名指ししているのと同じ人たちが、ボリビアから左翼を排除するために我々が協力している人たちだからだ」と答えた。...私たち、アルゼンチン人は......あなた方のCIAと協力しているのです」。


1980年代半ば、ジャーナリストや議会の調査官がコントラに関連した麻薬取引の証拠を調べ始めたとき、ムーンの『ワシントン・タイムズ』から厳しい攻撃を受けた。私がブライアン・バーガーと共同執筆したAP通信の記事は、「政治的な策略」としてタイムズ紙の一面で非難された。[1986年4月11日]

タイムズ紙は、ケリー氏の調査団を、まず金の無駄遣いで攻撃し(1986年8月13日)、次に司法妨害で攻撃した(1987年1月21日)。今では、ムーン氏と南米の麻薬関係者との歴史的なつながりが明らかになっているため、これらの調査に対する嫌がらせは、自己防衛の可能性という別の様相を呈しているのである。

ムーンのCAUSAは、アメリカでプロコントラの集会を開催したり、ホンジュラスや他の中米諸国の右翼勢力とコントラの活動を調整したりし続けた。1980年代を通じて、ムーンのワシントン・タイムズはコントラの活動を積極的に擁護し、議会が資金援助を打ち切った後もコントラのために資金を集めた。1984年には、サンディニスタの麻薬疑惑に関する最初の報道を行い、議会でコントラの主張を後押しする一方で、メデジン・カルテルに関するDEAの大規模な調査を阻止した。






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コメント

トム・ウォード プチ研究
>トム・ウォードは諦めたような顔をして、アルゼンチン政府は終わったと言った。
「アルゼンチン人はボリビアで多くの失敗をしてきた。あなたたちの立場は全部、あまりにも反動的なんだ。バルビーとの関係も、ファシズムとナチズムの件も、すべて行き止まりだった」///


言ってることがまともだと感じる、統一関係者では珍しい人。

● アルゼンチン政府が終わったとは?:

ちょうどその頃(82年)抑圧•弾圧が強い残虐なアルゼンチン•クーデター軍事政権が失脚し崩壊した時期だった。


wiki 「アルゼンチン」より
1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター(アルゼンチン・クーデター)を起こしイサベル・ペロンをスペインに追い払い、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。
ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧・弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。
軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭って失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。///


●「反動、反動的」とは?
政治用語は背景があるから難しい‥‥

反動 - Wikipedia
反動(はんどう、英: Reactionary)とは歴史用語、政治用語で、一切の改革や革新に反対する姿勢、行動のこと。 左翼勢力が右翼勢力をさして批判的文脈で用いる(「保守反動」「右翼反動」など)。


当時のアルゼンチンやボリビアが“反動”なら、統一教団(カウサ)も“反動”なのか? いや‥‥
KCIAやCIAの波に乗って、誇大妄想でツーッと突っ込んでいっただけなのか???



トム・ウォード博士は統一神学校の学長らしい。その前は長らくブリッジポート大学の学部長だったと。
学究タイプのようです。
家庭連合についてどう思っているのか、澤田レポートさんにでもインタビューしてもらいたいものです。
やはり統一神学校にいる神明さんと同じようなものかな?

https://uts.edu/academics/faculty/683-ward-thomas-j

トリビアとして、若い頃、拉致監禁されて35日間ディプログラミングを受けたが、教会に戻ってきたとのこと。
80年代の南米では
80年代、複数年南米に住んでいました。ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、仕事であちこち行ったり、旅行したりしていました。南米ではよく市が立っていて、古本も売っていました。びっくりしたのは、何度も文鮮明の表紙写真付きの分厚い本が売られているのに出くわしたことです。
手にとってみるのも、カトリックの国ではあやしくれ思われそうなのでしませんでした。

この頃パラグアイやウルグアイでの統一教会の話がYouTubeで見ますが、あの南米諸国での古本は、こういうことの一環だったかもと思いました。
Re:80年代の南米では
るんるうんさん、
「龍明小説」をお読みいただき、ありがとうございます。

>びっくりしたのは、何度も文鮮明の表紙写真付きの分厚い本が売られているのに出くわしたことです。

現地の様子が垣間見れる貴重なコメントをありがとうございます。

(記事より)「ボリビアの情報機関の報告書によると、5万冊の統一教団の本が米空軍機でラパスに運ばれたという。」
ご推察のように、この“統一教団の本”が古本として流れていたのでしょうね。
さぞかし売れなかろうね(笑

過去日本でも、「文鮮明自叙伝」という分厚い本が、信者たちの自腹で駅前などでばら撒かれたので、ブックオフやamazon 古書で1円で大量に出回りました。

南米では、ボリビアなど、統一教会が加担したコカインクーデターで、共産化するより酷いことになって、最貧国として今も引きずっているのですから、ひどい話だと思います。
教団や信者たちは、勝共(反共)運動の一環として片付けるのでしょうか。
これをどう断じたらいいのか?
独裁運動の一環では。全体主義、帝国主義運動の一環では?と言いたくなります。


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