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ホントは小さいオール統一・コメント返し




 ホントは小さいオール統一
   (本人元信者も入るかもだけど)
             ・コメント返し





前回記事「真の母」危うし/そういう意味での“家族”/6ー9」のコメント欄に、クリスチャンの方から質問がありました。
その返信を主に、繋がっていると思うので前座からまとめて編集しお送りします。
途中、kimagure-orさんの質問コメントからが本番になります。
http://anzais.blog.fc2.com/blog-entry-185.html#comment527


今回は暗在の、なぜかいきなりブチギレたような独り言コメントから始まりました。

暗在 2021年01月22日 17:51

【神/創造主は深遠です。】

神を不信させるために書いているんじゃないか、って?

バカ言っちゃいけないよ。

神、創造主は、深遠です。

 

暗在 2021年01月24日 00:31

【微細補足しました。】

今回のものを読み直してみたところ、会話ばかりで平面的で、描写が足りない所がたくさんあったので、ちょこちょこ書き加えました。特に後半の部分です。
もう一度読んでくれないかな(だめか)

分かりにくい所、不自然な箇所、説明不足があったことをお詫び申し上げます。
もう一度読んでくれないかな(無理だな)

あ〜あ、全然だめだった。練習、練習!

 

米本 2021年01月24日 19:08

【日々、勉強勉強!】

>あ〜あ、全然だめだった。練習、練習!

日々、勉強勉強!

 

暗在  2021年01月26日 10:26

【Re:日々、勉強勉強!】

米本さん、ありがとうございます😊

こういうことは、スピリチュアルな面の気付きや成長ともリンクしていて、日々勉強勉強!なりますね。

 

kimagure-or 2021年01月25日 09:11

【No title】

もう一度読みました。
ご安心を!(^^)!

 

暗在 2021年01月26日 10:59

【Re:No title】

kimagure-orさん、
もう一度読んでくださったとのこと、ありがとうございます。
ほとんど違いは分からなかったかもしれませんが。

***
人物造形や場面描写って、小説の内容が突飛なだけに、気恥しくわざとらしい気がしてスルーでしたが、ある程度描かなくては読み手に伝わりにくい、と後になって分かった次第です。

経験を積んだしっかりした作家さんなら、最初から心得て書くでしょう。そういう作家さんなら、このような題材は、背景として使うだけでしょう。主人公はまた別にいるんでしょうよ。
例えば、組織の正体を追求するジャーナリストと二世とか(ダヴィンチコードの二番煎じ)。小説らしくしたいなら、そのようにすべきかもしれません。

いろいろ矛盾はありますが、今ココではこうするしかないので、贅沢言わずに、練習、練習、勉強、勉強!でございます。

 


kimagure-or 2021年01月25日 09:56

【お聞きしたいことがあります】

今回の記事にも関係していると思うので質問させてください。

マタイ19章12節に次のような記述があります。

「というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

また、マタイ22章29~30節には
次のように記述されています。

イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。


このみ言葉を読めば独身は決して否定されているものではないし、天国には婚姻関係というものがないことがことがお分かりいただけると思います。

つまり、統一教会の信者は祝福を受けなければならないという教義と矛盾が生じてくるわけですが暗在さんは現役信者さんの時、この聖書箇所をどう思われていたんでしょうか?
若しくはこの箇所を教会は信者にどのように説明していたのでしょうか?

返事は遅くても構いませんのでご教示してくだされば幸いです。

 
暗在:

【Re:お聞きしたいことがあります】

ご質問に関連してアトランダムにいきます。

異性がいて繁殖する段階、結婚による家族という生活形態を通して存在・成長する段階は、悠久の概念からすれば一時的なものだと、神秘学のルドルフ・シュタイナーも言っております。

突飛な話になりますが、遠い未来(地球などとっくになくなっている頃)の人間種は、有性の生殖器はなく、いうなれば言葉を発する器官である咽喉が生殖器になる、つまり発した言葉から実体が生まれる(繁殖する)ことになるといっています。
ヨハネ福音書の冒頭のような状態ですね。(「初めに言葉があった」)


つまり不可視の領域には、人間より大いに霊性が進化しているそのような存在もいるわけで、むしろそれが人間の目指す先なわけです。
ですからこの世でも異性間の結婚・祝福が絶対不変で、絶対必要とは思いません。
(大まかに言って、できれば結婚した方がいいねとか、赤ちゃんはまだ?とか、余計なお世話を身内には言いそうな中高年にはなりましたが)

オール統一は、独身を否定したり、独身とは関係ありませんが、意見の違いを主張するのではなく「変人」などといって個人を否定しマウントを取ったりがまかり通り、人格攻撃の応酬の世界になっているようですね。
原因・遠因は、組織の初期、または創立以前の教祖の履歴からも窺われます。神学に無知な異端神霊団体とか。


ご紹介くださったマタイ伝の箇所や、
>このみ言葉を読めば独身は決して否定されているものではないし、天国には婚姻関係というものがないことがことがお分かりいただけると思います。<<
は、ごもっともと思います。


>マタイ19章12節に次のような記述があります。
「というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。<<

この箇所は、原理講義や公の説教・講話などでは、ほとんど触れられない部分だったと思います。知らない人も多いかもしれません。

しかしおぼろげな記憶を辿れば、例えば伝道活動や訪問販売を通して、若くない独身者で意識の高い良い人が繋がった場合など、この聖句を使い、「神が最初から独身に守って準備していた人だ。そういう人こそ成約のみことばを伝えて祝福まで導くべきではないか。祝福とは本来そういう人のためにあるのだ」というような論調があったように思います。
時代によっても違ってくるでしょうけど。

独身のイエスの新約時代、それに準ずる清い独身者(神父や修道女など)が、家庭を持った再臨主の統一教会の祝福を一番に受ける資格があるとかなんとかいう理屈を文教祖も言ってなかったかな。

もちろんそんなにうまくはいきません。(昔、統一教会の祝福を受けてバチカンから破門されたミリンゴ元大司教という人がいましたが)


蛇足ですが、原研当時、私は個人的に、結婚という形式には拘らないとしても生涯独りでいたいとは思わなかったこともあり、その独身者に関する聖書の箇所は、原理と対比してどうのとは考えなかったかと思います。

もっと後になってからですが、フェミニズムや同性愛については、教会風の闇雲な否定は受け付けないと決意しました(政治的にではなく)

聖書や人文学の本の方が、統一教会の教えより、心が広がりスッキリすることは感じていました。



kimagure-or 2021年01月25日 10:23

【お聞きしたいことがあります2】

度々すみません。
新たな疑問が湧いてきましたのでお聞きします。

私は原研在籍時、先に述べた聖書箇所のことを知りませんでした。一応、聖書は読んでいたのですが蕩減条件として読んでいただけなので読む箇所は学舎長が指定したところだけだったのです。

そこで思ったのですが蕩減条件で信者に読ませる聖書箇所って決まっていたのでしょうか?
もし、決まっていたとしたのなら都合の悪い箇所を読ませないことも可能になることになります。

講師や学舎長と言った指導的立場になったことがないのでわからないのですが暗在さんならもしかしてそういうお立場をご経験されたのかもしれないと思ってお聞きしました。




暗在:

【Re:お聞きしたいことがあります2】

>蕩減条件で信者に読ませる聖書箇所って決まっていたのでしょうか?

いやそれは知りませんでした。
原研時に、旧約新約の聖書通読の条件を立て実行しましたし。

私の知る限りそういうことはなかったのですが、現場では場所や年代によって違うようですね。
期限つきの条件、たとえば1週間の祈祷条件で聖書のみことばも読みたい場合、どこがいいですか?となり、アベルが「それなら〇〇福音書がいいよ」などと言うことはあり得そうでしたが。

私は日本では責任者や指導的立場をやったことはないので。
アメリカでなら多少はありますが。
当方、日本統一には向かなかったw


>もし、決まっていたとしたのなら都合の悪い箇所を読ませないことも可能になることになります。

そこまで考えていなかったのではないでしょうか。
先に触れたように、今は新約を越えた成約時代だからなどと理屈をつければ、信じ込んでいる者にとっては、大抵の言葉は屁理屈でどうにでもなるでしょう。

外側にある有限可変の位置や言葉やアイデンティティによるのではなく、全体意識とつながった、内側の本当の自分を見出して見失わないようにありたいものです。








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コメント

丁寧なお返事ありがとうございます。
>そこまで考えていなかったのではないでしょうか。
そう言われればそうですね、確かに通読していた人もいましたしね。

しかし、私から見れば統一教会の聖書解釈のやり口は汚い限りです。
1~2節を聖書から切り取ってきて文脈を無視して都合のいい解釈するという連続です。
酷いものになるとその1~2節でさえ都合の良い箇所だけ切り取っています。
ですから、蕩減条件で読ます聖書箇所も都合の悪いところは読ませないようにしていたのかと考えてしまいました。

ちなみに以前私に尋ねられたダニエル7章13節は初臨ではなく再臨の預言です。

わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。(ダニエル7:13)

この聖書箇所が再臨を指している理由を説明していくと長くなるので割愛しますが興味が有ればこちらのサイトをご覧になってください。
https://osusowake.hatenablog.com/entry/2013/11/04/202043

ただ、ダニエル書7章は2章と対になって書かれているので7章を理解しようとすれば2章の理解も必要となってきます。
ちょっとめんどくさいです。

最後に丁寧なお返事くださったこと改めて御礼申し上げます。
追伸
>ヨハネ福音書の冒頭のような状態ですね。(「初めに言葉があった」)
クリスチャンはヨハネ冒頭部を次のように理解しています。
ご参考までに。
https://ameblo.jp/kimagure-or/entry-12640447368.html
Re:丁寧なお返事ありがとうございます。
kimagure-orさん、コメントありがとうございます。

「天使のラッパが鳴り響き、雲に乗ってやってくる」のは、再臨の時のことで、「多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられねばならない”」と書いてあるのは初臨の時のことだと。それは聖書の文脈をしっかり読めばはっきり分かることだと。
原理講論では、初臨も再臨もごちゃ混ぜにしていますね。

その点を含めてkimagure-orさん神学監修?とまでは言いませんが、参考にさせて戴いて書いたのがコレ↓↓↓でした。

「うまくいかない神学論争 嘆きの信者/龍明小説3-14」
http://anzais.blog.fc2.com/blog-entry-116.html
(草創期初期の北韓時代、平壌のキリスト教会を訪問伝道する食口の様子。モデルは実在の車相淳執事。ジャンドン教会訪問時、6、7人に取り囲まれ道に放り出されたと証言している。
お笑いも入れたので、まだの方は読んでくれないかなあ。だめか)


>クリスチャンはヨハネ冒頭部を次のように理解しています。
ご参考までに。
https://ameblo.jp/kimagure-or/entry-12640447368.html

ここでの「言(ことば)」は「イエス・キリスト」のことだと捉えていると。クリスチャン全員というか、聖職者全員がそういう解釈なのでしょうか。


後で気がついたのですが、発する言葉が実体となる表現の例としては、
>ヨハネ福音書の冒頭のような状態ですね。(「初めに言葉があった」)
ではなく、
>「創世記冒頭のような状態ですね。(神は「光あれ」と言いわれた。すると光があった)
こっちのイメージのつもりで混同しました。記憶(脳味噌)が混ざってしまいましたw


ヨハネ福音書は、第4福音書として、他の3つの共観福音書とは別の扱いをされていますね。

ヨハネ伝は、哲学的解釈というか、私のように文学的解釈を挟む余地が出てしまうでしょうね。

そういえば、大昔の話、私がヨハネ福音書からの解釈で何かをアベルに言った時、アベルが「ヨハネの福音書はあまり参考にならないですよ。マタイなどを読んだ方がいいですよ」と言ったのを思い出しました。
私の言が異教的だったんでしょうよ。

もし蕩減条件で信者に拝読させる箇所を検閲するとすれば、ヨハネ書などは読ませないことになるかもしれませんね。

キリスト教では、ヨハネ伝はそれなりに重視されているようですね。


No title
>ここでの「言(ことば)」は「イエス・キリスト」のことだと捉えていると。クリスチャン全員というか、聖職者全員がそういう解釈なのでしょうか。

はい、そう思っていただいて結構です。少なくともプロテスタントはそうです。
ご参考までに
https://www.youtube.com/watch?v=fuHwO_l6KGw&t=726s

https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-Jesus-word-God.html

蛇足かもしれませんがこの個所はエホバの証人にとっても都合が悪い箇所なのです。彼らにとってはイエス様もまた神様によってつくられた被造物という存在だからです。

故に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という箇所を「初めに、言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて、言葉は神のようであった。」と聖書を改編しています。「神のようであった」=「神ではない」と彼らは言いたいわけですね。
追伸です
>アベルが「ヨハネの福音書はあまり参考にならないですよ。マタイなどを読んだ方がいいですよ」と言ったのを思い出しました。

この発言こそ統一教会員の聖書に関する無知を曝しているものだと思います。

聖書の中で一番大切な聖句を挙げよと言われたら多くのクリスチャンはヨハネ3章16節を挙げると思います。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

このヨハネ3章16節について新島襄は「これは新約聖書の富士の山、富士山である」といい、マルティン・ルターは「これは聖書の縮図、また小さき福音書である。」といいました。
また、ビリー・グラハムは自分の講演前のマイクテストで必ずマタイ3章16節の箇所を声に出していたそうです。

四福音書の中でキリストの教えと、イエス様の人格が一番良くわかるのがヨハネの福音書です。







No title

kimagure-orさん、

ありがとうございます。

コメント欄からスピンオフ記事にさせていただきました。

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