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原理も文氏もおかしい イエスの十字架問題



   やはり、
    原理も文氏も
        おかしい 

          イエスの十字架問題



ここ何回かご紹介しているバラ十字神秘学では、イエスの十字架はイエスの使命の一部だった、との見解を示しています。


カルマの法則に関しての教材にて:
“悪事を行った場合、後に必ず試練が訪れるが、現れた全ての試練が必ずしも否定的なカルマの結果ではない。その実例として、達人イエスは……”
という繋がりで、


「イエスになされた磔の刑は、肉体的にも道徳的にも大きな試練でした。

しかし明らかにこの処刑は、過去の過ちをイエスに気づかせるために科されたものではありません。

そうではなくて、それはイエスの使命の一部であり、彼の公の活動の最終段階となっていたのです」



とあります。

また後々の教材で、高いレベルにまで進歩していたイエスの功績について、保管文書から詳しく考察する機会があるとのことで、楽しみにしています。


それを踏まえると、統一教会(家庭連合)の、
キリストの十字架は失敗。イエスはこの世で生きて結婚すべきだった
という主張は、
1930年代〜朝鮮半島に現れた 新イエス教会とその周辺の神霊集団 に共通する独特の、異端的な(おかしな)考え方を継承したものに過ぎない、と再び確認する次第であります。

手前味噌になるかも知れませんが、龍明小説 番外編
「UCの母体 イエス教会、霊的になって終了」より引用:

イエス教会とその周辺の神霊集団に共通する主な主張をまとめると、大体このようなものになる。

・キリストの十字架は失敗で、イエスはこの世で生きて結婚すべきだった。
・原罪は果実を取って食べたことではなく、人類始祖の淫乱・淫行にある。
・再臨のキリストは天から雲に乗ってやって来るのではなく、すでに東の国朝鮮に肉体を持って生まれている。

・朝鮮人の再臨主によって全人類は完全に救われ、朝鮮は全世界に崇敬される宗主国となる。



これらの主張は、朝鮮メンタルに関係するのかもしれません。
事大して生き延びれないなんて失敗だろ、俺ならもっとうまくやれるぜ?と、イエスに対してマウントした上目線のようです。

ただし、禁欲主義と、愛と性の問題は、人間の本性に関わる根本的な問題なので、それと上の主張をリンクさせてしまうと厄介なことになります。まあ皆さん(私を含め)、リンクさせてしまったのでしょうけど。


「チャタレイ夫人の恋人」の作者として有名な D.H.ロレンスの著作に『死んだ男』という短編小説があります。

エルサレムで十字架に掛かって死んだイエスが、
洞窟の中で生き返ってしまう。
フラフラ歩いて近くの農家の庭に横たわる。
傷が癒えず力が出ない。どうにも無気力。
雌鳥を従える雄鶏が地面を蹴る力強い足を見ながら
とりとめもなく考えを巡らす。
(あんなことはもうしない。
 無知な民衆に教えを説くなんてお節介だった。)

イエス、イシスの巫女と出会う。
彼女は彼の深い傷を優しく介抱してくれる。
イエス、異質の愛に感動する。傷癒える。
イエス、イシスの巫女と交わる。子供できる。
イエス、回復して、新たな人生の旅に出ることを暗示。

こんな感じの筋だったと思います。
原研の頃、大学の授業でやったか何かで、何回か読みました。

文学好きとして、先入観なしで読めば、非常に魅力的な作品なのですが、なにせ原研、強烈な宗教バイアスがかかった状態で読むと、まあ混乱します。
これはヘブライズムとヘレニズムの結合だから原理的(統一原理擁護的)なのか、それともやっぱり堕落文学か?とかですね。
全体的に苦々しい重い雰囲気の作品で、原理の狭〜い範疇には全く収まり切れないわけですが。

参考までに検索してみた。
時代と文学 ロレンス『死んだ男』を読む。
D.H.ロレンスの「死んだ男」の画期的独創性

        
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先の神秘学の知見を借りれば、何度も生まれ変わって修行を積み、高いレベルに進化していたイエスは、
ロレンスの「死んだ男」にあるような異性イシスの巫女との恋愛、交わり、有性生殖の境地は、前世ですでに獲得していて、
その上でキリスト意識の実践を目指し二千年前に地球に生まれて来たと考えられます。

(最近発見された写本では、イエスは既婚者だと書いてあるとか?
 もしそうだったら前世ではなく今世でもですね)


つまり、先回の記事で引用した、文鮮明さんの晩年の言:
「イエスは、祝福(結婚)のことを何も知らない阿呆め!」
ではないということです。

イエスの十字架は失敗だったなどと思っていると、いつの間にか(朝鮮メンタルの)傲慢性がうつってしまうのかもね。


蛇足:
ただし、達人イエスではない、われわれ普通の人間は、ロレンス「死んだ男」のイシスの巫女との境地も到達していない、あこがれの状態、目指す状態、またはその境地の状態にて学びがあることも大いにあり得て、無視できないでしょう。
(この作品は20世紀前半なので、現在では当時より進んでいるでしょう)

おしまい。





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コメント

朝鮮文化に影響された聖書解釈
>それを踏まえると、統一教会(家庭連合)の、
「キリストの十字架は失敗。イエスはこの世で生きて結婚すべきだった」
という主張は、
1930年代〜朝鮮半島に現れた 新イエス教会とその周辺の神霊集団 に共通する独特の、異端的な(おかしな)考え方を継承したものに過ぎない、と再び確認する次第であります。


 暗在さんは統一教会並びにその教義の土台を作った朝鮮半島の神霊集団の大きな特徴である、イエス・キリストの十字架を失敗と見なす特異な解釈について記事で取り上げ、問題視していますが、そのような解釈をすれば伝統的なキリスト教会からは異端視されて当然です。
 新イエス教会や神霊集団がもし伝統的なキリスト教会が認めるような「神の啓示」を受けたなら、そのようなキリスト教の常識を覆すようなことを言い出すはずはありませんから、普通に考えれば、神霊集団とは主張しているものの、実質的にはキリスト教の神とは違う別の「神」を信じている非キリスト教的神霊集団と考えねばならないのです。
 そもそも「啓示」とか「神霊」などという概念は人間が客観的に理解できるものではなく、ただ、その言葉を使っている人が自分自身の主観でその言葉を使っているだけかもしれません。
 たとえある人間が自分は啓示を受けたと主張しても、その人はただ幻覚を見やすい性格の持ち主だったかもしれないし、現実と妄想の区別ができない異常な性格の持ち主ということもあり得ます。
 また「神霊」は人間の死者の霊などとは根本的に次元が異なるもののはずですから、ある人が何かを感じ取ったとしても、それが「神霊」だなどと断言できるはずはないのです。
 そう考えると、朝鮮半島の新イエス教会や神霊集団はイエス・キリスト、或いは神から啓示を受けて新しい真理を知らされたと主張していたとしても、実際は伝統的なキリスト教徒が考えるような「啓示」ではなく、朝鮮民族が古くから考えるような朝鮮的「啓示」だったということも考えられるのです。
 朝鮮的「啓示」とは朝鮮シャーマニズムスタイルの「啓示」ということですが、統一教会を観察した限りではその可能性が高いと思います。
 朝鮮半島の人々の道徳レベルというものは決して高いものではなく、近代まで続いた李氏朝鮮王国の極端な身分制度の酷さは世界でも有名で、インドのカースト制度に匹敵するものですから、その文化にも「恨」がいつまでも付きまとっているのです。
 そして過去の時代にはいつも自分達が思うような国を作れず、実質的には中国の属国のようなものでしたから、「恨」の情念が民族に広く蔓延してしまっているのです。
 朝鮮シャーマニズムで最高神と考えられる神は、そのような朝鮮人が考える神ですから、伝統的なキリスト教徒が信じている神と内容的に一致するはずがありません。
 よって、潜在的に「ハヌ二ム」を信じる人間が自分なりに聖書に関心を持ち、朝鮮人の世界観に合うように聖書を解釈したと考えても、それは十分にあり得ることです。
 特に、
「・キリストの十字架は失敗で、イエスはこの世で生きて結婚すべきだった。」
「・原罪は果実を取って食べたことではなく、人類始祖の淫乱・淫行にある。」
は如何にも朝鮮人の考えそうなことだと思います。
 その理由については、書き始めると長くなるので省略しますが、暗在さんなら分かると思います。
 
遅れました。
神々の黄昏さん、
「朝鮮文化に影響された聖書解釈」のコメント投稿、感謝、感謝。(米本風)

>そもそも「啓示」とか「神霊」などという概念は人間が客観的に理解できるものではなく、ただ、その言葉を使っている人が自分自身の主観でその言葉を使っているだけかもしれません。
>たとえある人間が自分は啓示を受けたと主張しても、その人はただ幻覚を見やすい性格の持ち主だったかもしれないし、現実と妄想の区別ができない異常な性格の持ち主ということもあり得ます。

大いにあり得ますねー。
考えに入れておかなければならないことでしょう。

朝鮮的「啓示」、小説では隙あらば「お告げ」と言い換えて、「啓示」と「お告げ」を表現のバリエーション程度の差でごちゃ混ぜに使っていますが、厳密に言えば違う概念なんですよね。

>、、、その理由については、書き始めると長くなるので省略しますが、暗在さんなら分かると思います。

いや分からないです。
たぶん、その理由を聞けば、「そうか、わかる、わかる」となりそうな気はしますが。
最初の問いの立て方というか、着想というか、切り込みの角度は、その人独自のものなので、成り代わって答えるのは難しい、というか、神々の黄昏さんになり変わって答えるのは難しいということです。
オリジナルなところから発しているのでしょうし、仮にでも、把握できたような気にならない、というか。おかしいなあ、どうなってんだ? わざとテキトーに乱数打ち?(笑



関連して思い出した内容を
https://ja.wikipedia.org/wiki/韓国のキリスト教
から、別のコメント欄に引用、転写します。
韓国のキリスト教 特徴・批評
wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/韓国のキリスト教
より


特徴・批評

社会人類学者の崔吉城は、韓国のプロテスタントについて
「プロテスタント教会にはシャーマニズムとキリスト教が共存あるいは混在するようであり」「多くのクリスチャンはシャーマニズムを迷信だと思いながらその中にシャーマニズムが埋没されている事に気がつかない」と述べている[19]。

また、プロテスタントが成長した秘訣は巫俗を受け入れた宗教的熱狂主義に根元を置く心霊復興会にあると指摘した。

「韓国プロテスタントの感性的神秘主義運動は知性的神学を前面に出して布教に失敗した日本プロテスタントと対照をなす。

韓国プロテスタントはキリスト教が一般的に敵対視したり忌避する傾向があるシャーマニズムを神秘主義に引き込み、巫俗的神秘主義と韓国の風土が合致して教会の急成長をもたらした。

神霊的神秘主義を端的に表現する言葉として「通声祈祷」「聖霊臨在」「放言」「三拍子祝福」「治病」「按手治療」「血分け」「接神」「降神劇」などを挙げ、このような新興聖霊運動は韓国国内だけでなく韓国人が住む世界随所に現れている。

引き続き新興聖霊運動は1907年世界教会史上初めて早天祈祷会と通声祈祷を考案した吉善宙牧師主導の大復興会を筆頭に、1930年代にイエスが自身に親臨したとして降神劇を行った李龍道、自身の首が切られてイエスの首がその上に乗ったと放言した熱狂的神秘主義の黄国柱に繋がった。

宗教から神霊性を強調する神秘主義を抜いてしまった場合は宗教性が弱くなるが、反対にそれを過度に強調した場合も神学自体が無視される。」とし、「これらの適度な調和が宗教発展に要求される。」とした[20]。


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