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この神観いかがですか?(櫻井夫人の声で)

  

   みなさん、
    この神観いかがですか?
         (櫻井夫人の声で)





私が4年程学習している、右サイドにリンクもしてある、「バラ十字会」の神秘学の神観を、少しですが紹介します。

毎月送られてくる教本を人に見せたり、譲ったり、内容を口外することは厳禁とのことですが、

関心のある人に説明してあげることは禁止ではなく当然認められており、推奨すらされています。

正直この厳禁と推奨の違いが私にはよくわからんのですが、ここを読んでいる方は一応、統一原理、創造原理というのを読んだことがある方が多いとして、関心があると勝手に見做ーース!


教本を見せること禁止は、歴史的に中世キリスト教封建社会で、バレると異端・火あぶりになるような状況が実際にあったことから、秘密保持の必要性が会の伝統芸として残っているのでしょう。

また、教本は知識を長期間かけて螺旋状に少しずつ、魂を練磨しながら積み上げていくので、途中いきなり見ても理解されず誤解されやすいという理由もあるでしょう。


私もそういう理由から、何度か書きたいと思いつつもやめておいたのですが、今回はもう誤解と火あぶりを覚悟して、ただの紹介ですが(笑)

膨大な教本の内容から、神観に関することを、パラパラと箇条書き的に抜き書きしました。文章もほぼそのままです(多少の切り貼りあり。


では、禁断の神秘の世界へ、どぞー




「<創造主/神>は誰であるのか、あるいは何であるのか」


<創造主/神>は、人間に似ていない。擬人的な存在であると考えること、つまり人間に似た存在であると考えることは全くの誤りです。


人間のような体を持つ<至高の存在>で人間と同じ心の傾向や心の反応が<創造主/神>にあると考えてしまうのは誤りです。


また単なる不可視の霊的な実体でもありません。この世界の一つの部分だけをある時に意識する(見守る)ような限定的な性質はありません。


<創造主/神>は、他の万物から独立した明確な実体であるわけではなく、万物と分割することのできない要素であり、宇宙に存在するあらゆるものを満たしています。


<創造主/神>は、宇宙空間や天空のどこかにいる存在ではなく、私たちの体の最も小さい細胞にも、天上の最も遠い星にも、同じように満ちています。


バラ十字会の見解では、<創造主/神>とは、万物を考案した<普遍的知性>(宇宙の知性)であり、<最初の言葉>とは、<創造主/神>がこの世界を創造するために用いた<原初の振動>のことなのです。


この知性は、遍在(あらゆるところに存在)していて、時間や空間に制限されていません。宇宙が活動するようにするために、この知性は、存在する全てのものに<ソウル>を吹き込んだ。


<創造主/神>には、人格という性質がなく、したがって擬人化して考えるべきでないということは真実なのですが、人間にある極めて美しい徳は<神の完全性>の表れのひとつであるということもまた真実です。


「愛」「思いやり」「善良さ」「誠実さ」「謙虚さ」「利他的な行い」等と私たちが呼んでいる人間の美徳は、<神の聖なる叡智>の延長です。


この世界で肉体を持って生きている人間は、進化して十分に発達した段階に到達している場合に、自身の行動の中にこれらの美徳を表現することができます。
(抜き書きここまで)




《暗在但し書き》
「神=宇宙の法則」というわけではない。
汎神論? まあそうも言えるかもしれない。
ID論? ID論をよく知りませんが、含んでいるかもしれないし、違うかもしれない。
宗教ではなく、神を崇拝・信仰する必要はない。
宇宙の法則を知りそれに敵う人間になることが重要。
宗教との二股、三股、全然オッケーとのこと。
海外では半分以上の会員が、何かしらの自分の宗教を持っているのだそう。
私も最近では伝統文化的にも神道が気になるところ。

バラ十字会では、<創造主/神>のことを表すのに、「私の心の中の創造主」「私の理解する創造主」という言い方をしますが、それがとても気に入っています。


         *

まったく関係ないですが、櫻井節子夫人のポッドキャストを聞いてみました、寝ながらですが。
声が黒柳徹子に似てないですか。そっくりに思いました。

三男ヒョンジンさんが統一教会(幹部たち)から、批判攻撃排斥されたという話をやっぱりしていたな。
何度も聞いた過去のその話、判で押したように、やっぱりしなくてはならなくなってしまうのですかね。
祝福家庭も以前とは違って、サタンに荷物を背負わせられた家庭になってしまったとかも言っていたな。
いやなこった、ねえ!

プロ中のプロの黒柳徹子さんの声に似ているとは、老化しない恵まれた声で、冷静な語り口なのですから、そんなことは言わないで、上の神観を朗読してくれないかな。

では、みなさん、櫻井夫人の声でもう一度、神秘学の神観をどぞー(オエー






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コメント

確かに。
黒柳徹子の声に似ている。
それにしても、こんな年寄りしか表に出せないほど、人材が払底しているんだなあ。泣き

未来をまるで語ることができていない。
バラ十字会の神秘学と超心理学、そして統一原理
 バラ十字会の神秘学は私が統一教会に入会する以前に関心を持っていた超心理学とかなりの部分で共通性があります。
 超心理学について私が知るようになったのは東大卒の発明家でもある橋本健氏が書いた超心理学の入門書を読んだためですが、そこで初めて神の存在の捉え方を知り、強い共感を覚えたのでした。
 ただ、読んだのはただの入門書であり、当時は受験勉強の真っ最中でもありましたので、超心理学の専門的な知識を得るところまでは行きませんでした。
 そして超心理学についての知識はないながらも神の存在については心の底で関心を持ち続けていたのですが、神の存在について伝道という形で積極的、半強制的に教えてくれたのは統一教会でした。
 情熱的に伝道している統一教会員から誘いを受けて、私は原理講義を受けたのですが、原理講論の創造原理にある「存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。」という講義を受けた瞬間に私は感動して統一原理全てを受け入れるようになってしまったのでした。
 その創造原理の一部が私には超心理学の奥義のようにも感じられたのです。そして統一教会こそが神が私を導かんとする教会に違いないと思い込み、統一原理を信じるようになってしまったのでした。

 しかし超心理学と統一原理は総合的に見れば全くの別ものであり、超心理学についてほんのさわりしか知らなかった私はその違いを知らないまま、一線を越えて宗教の世界に入り込んでしまったのでした。
 まだ未成年で未熟だった私は創造原理のみならず、堕落論まで信じるようになってしまい、完全な宗教信者となってしまったわけですが、当時の精神状態からすれば避けようもなかったことかもしれません。
 今でこそ、聖書が人間の手によって書かれたただの民話に過ぎないことを判別できる訳ですが、神の肯定が聖書の肯定と同一に思えてしまう未熟な頭では、聖書を客観視することなどできませんでした。
 結局のところ聖書は神とは直接関係のない所から生まれたものであったわけですが、超心理学をもっと勉強していたら、その辺のことも多分わかったのだろうと思います。

 バラ十字会の神秘学は超心理学とかなりの部分で一致するもののようですが、違いがあるとしたら、歴史の長さだと思います。バラ十字会の神秘学は長い歴史があり、その歴史はユダヤ教よりも長いわけですから、学ぶには十分過ぎるほどの価値があります。
 私の実感としては神秘学を学ぶことによって、初めて統一教会員は宗教を卒業できるのではないかと思います。
 
Re:確かに
米本さん、コメントありがとうございました。

やっぱり似ていますよね。客観的にもそう分かって一安心。
音大声楽科出身、オペラ歌手志望だった声のプロ・黒柳徹子と声が似ていて、声が良いからラジオをやっているとアベル的()に捉えましたが、内容がヤラサレ感ありーの硬直感アリーナ@武道館!といったいった感じで。もともとそうだったといえばそれまでですが。

>未来をまるで語ることができていない。

なるほどー、カッコいいです。


櫻井節子夫人の証より
60年代に文鮮明氏が来日し夜中に会った後、それをきっかけに心理的にも大転換し、一大決心をして御旨に邁進してゆく櫻井夫人ですが、深夜西川夫人に案内されて文氏の部屋に行ったあの時、何かあったのですかねえ?!

部屋には崔元福さんもいたらしいですが、立会人?いや知らんがな。
文氏は後で西川ビショクママに「あの子はいい子だよ」と言ったらしいですが、節ちゃん、若き日に文氏と何かあったのですかねえ、ねえ、ねえ!
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yi1800/akasi/sakurai.html#010
無神論者に対する見解紹介
(無神論者だと言っていた)米本さんからのコメントがあり、思い出したことですが、
バラ十字会は無神論者について、このように述べているので、紹介させてください。

「まさに神秘家のような振る舞いをしていたにもかかわらず、自分は無神論者であると述べていた優れた人が、人類の歴史にはあふれています。
その中には、人類の精神の向上に大きな貢献をした人さえいますし、人生についての自身の信念に基づいて、崇高な理想のために奉仕する生き方をした人もいます。
ちなみに、無神論者の中には、人生のある時期には<創造主/神>が存在すると考えていたけれども、不幸なできごとを機会に、その信念を捨てたひとたちが多くいます。現在存在する宗教には、満足できるような神の定義を見出せなかったことから、無神論者になったという人もいます。
私たちは、唯物論者を非難しないのと同じように、無神論者も非難しません。なぜなら無神論もまた、あらゆる人に影響を及ぼしている、精神の世界の法則を理解していくためのプロセスの一つの段階だからです」
(引用ここまで)

と、精神性を重視している、または利他的で人類愛を信奉している無神論者を認めており、相性がいいようです。
私も脱会後、何回か無神論者になっていますが(心が腐敗しないように殺菌のため循環させてる? 温泉かッw)、こういう考え方は好きですねえ。

同じ無神論者でも、物質の利益を重視し心を軽視する唯物論者に対しては認めてはおらず、「彼らを非難するのではなく同情を向けるべき」とそこはかとなく上から目線です。

Re:バラ十字会の神秘学と超心理学、そして統一原理
神々の黄昏さん、貴重なコメントありがとうございました。
いろいろ思い出すきっかけとなりました。

アウフヘーベンするには、統一教会に伝道される直前期などのことも重要になってきますね。

>原理講論の創造原理にある「存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。」

この辺りについても、神秘学で言っていたことを思い出したので、また後でここに書かせていただきます。
創造原理のどこまでがOK?
神秘学から学び取る
創造原理のどこまでがOK?
どこからがNG?

神秘哲学について多くの著作を残しているトーマス・ジェイ・ハドソン(1834ー1903)の著書より引用

人間の力や属性を基準にして、神の力や属性を制限したり、測ったりすることができるのではなく、
神の流出を分析することによって、その本質的な性質の一部を我々は知ることができるということである。

ちょうどそれは、スペクトル分析によって、太陽の影響の範囲や威力を明らかにしたと思い込むことなく、光の性質の一部を知ることができるのと同じである。

その価値は、人のことが人自身に明らかにされることにあり、神のことが明らかにされることに、それ以上の価値があるわけではない。

それは神の中にある人間の属性が明らかにされるということではなく、人間の中にある聖なる属性が開示されるということであり、自然界における人間の地位が明確になり、人間という存在を<作成した者>に対する人間の義務の性質をはっきりさせることである。
(引用ここまで)


創造原理の最初にある、
「神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」
この辺りまではOKかと思いきや、神の神性を知るためにという動機が、そもそもよろしくないのかもしれない? いや、やっぱりここまでは一応OKなのか。

たとえば被造世界の性相と形状という二性性相を知ったとして、それにより発明や創作物が出来て人類の幸福・進歩・向上につながるなら価値があると言えますが、それによって神を知ったと言うのは「?」。確かに一部が知れたのでしょうが、統一思想の原相論の前書きなどを読むと、もう「これで神が分かったど❗️ウォーッ‼️」と天下を取ったような勢いです。
(当時はそれが魅力となりました。スンマソン。ソンマスン。シンマシン‥‥)

そこから、これを解いた方は神から遣わされた再臨主だ!とつなげてしまうわけですから、とんでもない誤謬ということになります。

上の例でいうと、スペクトル分析をして、太陽が分かった、太陽は俺の物だ、俺は太陽から遣わされた代理人だ、と主張するようなものでしょうか。
(もっとも性形の二性性相の内容も曖昧で眉唾で、スペクトル分析と比較などできないとは思いますが)

     ***
これ、紛らわしく、難しいです。何度考えてもスッキリしません。
神々の黄昏さん、お得意なら、考えてみてくださいませんか。
(教本:テンプル4-6 です)

もちろん他の方でもOKです。
Re:創造原理のどこまでがOK?
>「神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」
この辺りまではOKかと思いきや、神の神性を知るためにという動機が、そもそもよろしくないのかもしれない? いや、やっぱりここまでは一応OKなのか。


 暗在さんが上に問題視した創造原理の記述に関しては、やはり肯定するのは難しいと思います。
 「被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」 は確かに意味のあることであり、「被造世界」がどのような法則によって形作られているか探究するならば、その究極にあるところの知性が如何に優れたものであるか理解できるようになります。
 しかし、「宇宙全ての第一原因」として神を定義するのであれば、それら被造世界のものは全て時間、空間の限定された範囲内において表れた現象としての結果なのであり、第一原因の全てを表しているとは言えません。
 つまり、「神の神性を知るために」という発想がそもそも間違っているのであり、有限の存在である人間が無限の存在である神の「神性」を認識するなど初めから不可能なことなのです。
 「神性」という言葉は決して軽い言葉ではなく、神という存在を、人間を生み出した究極原因と認めた段階で、原因的存在の「神性」は人間の理解の範囲を超えるものと認識せねばならないのです。
 従って原理講論の「神の神性を知るために」は「第一原因」という神の概念の意味をよく理解していないがためにできた発想であり、後の言葉と整合性を図るのであれば、「神の属性を知るために」とするべきだったのです。

 その「神性」については創造的能力を持つ人間のことを考えればよく分かります。
 私が歴史上、最も創造的能力が優れた人物の一人と考える偉大な作曲家ベートーヴェンは、その作曲した数々の名曲から、その能力が如何に優れたものであるか客観的に分析することができますが、そのベートーヴェンが持っていた創造者としての魂がどんなものであるかは他者には理解が困難なのです。
 つまり、彼の音楽を観賞して感動したとしても、それだけでは彼の創造的魂については察することができないのであり、名曲を生み出した魂を理解することは彼以上の作曲家でなければ絶対に不可能なのです。

 原理講論が神を宇宙全ての第一原因と定義したところまでは肯定できるのですが、被造世界の普遍的な法則を探究することによって「神性」まで知ることができると考えたのは大きな間違いであり、最初にある原理講論の言葉は詭弁ということになります。
 原理講論の中には数多く詭弁がありますが、そこからは「真の父母」を神格化する方向性が見て取れます。
 未熟だった私も結局はその詭弁を見破れなかった訳ですが、一番の間違いは神の肯定から即宗教の信仰に転心してしまったことだと思います。
 宗教そのものが持つ欠陥についてよく理解できていたならば、そうはならなかったはずですが、考えることよりも楽である信じることの方に心が迷い込んでしまった自分でありましたから、当時は心が未熟だったということになります。
 
神々様、
神々の黄昏さん、レスを大変ありがとうございました。

>つまり、「神の神性を知るために」という発想がそもそも間違っているのであり、

「発想が間違っている」という言い方をすればスッキリしますね。
「動機がよくない」はそもそも現役さんの言い方なので、自己ツッコミが入ってしまいました。

「神性」と「神の属性」の違いも参考になりました。

そういえば統一思想では、その辺りの用語はしっかりしていたようですが、詭弁(創造原理)の上に成り立っているので、人類の役に立つものにならなかったのでしょう。(そこから出た?勝共理論は局所的局時的には役立ったことがあったかもしれませんが)

>有限の存在である人間が無限の存在である神の「神性」など初めから知ることは不可能なのです。

このことは、カント先生も、カール・バルトも、神秘学の達人ノーディンも言っている、人類が積み上げてきた智慧、、、やっとたどり着いた砦。

>「被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」 は確かに意味のあることであり、「被造世界」がどのような法則によって形作られているか探究するならば、その究極にあるところの知性が如何に優れたものであるか理解できるようになります。

「その究極にあるところの知性が如何に優れたものであるか理解する」精神の場所を自らの精神の中に作りたい。
というのは、この先の龍明小説4以降の屋台骨(設定)を構築するのに必要だと思うからです。そうでなければ小説世界が潰れてしまい、築けなくなることでしょう。

その精神の場所は、静かな凪(なぎ)、透明な大気、遠くまで見通しの利く状態だと思います。
 が、今は、私のその場所は、波がザブンザブン、煮えたぎって泡がブクブク、瘴気もくもくで視界利かずの時化(しけ)状態になっているようです。

これも神の肯定と宗教の信仰と狂信とが区別できない、ごっちゃになった後遺症でしょう。
ええい、鎮まれ、鎮まれーい(織田無道風)
自分の中に場所を特定し、望んで、自覚すればもう半分以上は解決、後は時間の問題だと思うことにする。
また何言ってるか分かんないことを書きましたが。


>原理講論が神を宇宙全ての第一原因と定義したところまでは肯定できるのですが、被造世界の普遍的な法則を探究することによって「神性」まで知ることができると考えたのは大きな間違いであり、最初にある原理講論の言葉は詭弁ということになります。

肯定できるのはそれだけとは(笑。
しかしそれだけで数十年、世界を相手に何とか食いつないでいけたのだから、最初の定義(設定)とは重要なものだな。

いろいろ参考になりました。
ありがとうございました。

神々の黄昏さんに質問です
数年前、神々の黄昏さんは、「火の粉を払え」ブログへの寄稿の中で、
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-657.html

>キリスト教神学においては、ユダヤ教にあった最小限の擬人化もさらに弱められ、神が形而上学的に追究されるまでになったので、擬人化と逆方向に進歩したと考えられるのです。

>結局、統一教会の信者は間違った教義で神を擬人化することによって信仰者として最も大切なものを失ったのであり、無形であり、人間には全体像を認識できるはずもない神に対する謙虚さを失うことになったのです。

と、統一教会と比較して、ユダヤ教やキリスト教のヘブライズムをある程度認めておられたと思います。

その後、たぶん神秘学デビューされたのでしょう。
神秘学は、宗教の限界も説きますが、宗教の有効性・有用性も認めていると思います。狂信や迷信は否定していますが。

最近急に、聖書やキリスト教等に対して厳しい言葉を使うようになったような印象があるのですが、何かきっかけというか、経緯のようなものがあったのでしょうか?
よろしかったら教えてください。


コメント「バラ十字会の神秘学と超心理学、そして統一原理」より:
>今でこそ、聖書が人間の手によって書かれたただの民話に過ぎないことを判別できる訳ですが、
>結局のところ聖書は神とは直接関係のない所から生まれたものであったわけですが、
Re:神々の黄昏さんに質問です
 確かにバラ十字会の神秘学は、宗教の限界を詳しく説明しておりますし、一方では宗教の有効性・有用性も認めており、聖書の聖句なども大変重要視しています。
 ただ、キリスト教においては教派によって教義はまちまちであるし、尚且つその信仰も個人によって全く異なっており、その信仰内容の違いには大きな問題があります。
 キリスト教徒の中にはイエスが実際に語った言葉の深い意味を悟ろうと心の感性を高めようとする信徒もいれば、ただ聖書の記述を信じることを重要視する盲目的で精神の浅い信徒もいます。
 私はキリスト教を肯定的に捉える場合、そのような心の感性が発達した人たちが信じる宗教として肯定していました。
 しかし、実際のキリスト教徒を見ると、教義に縛られた精神の浅い信徒がけっこう多いのです。
 それは歴史を振り返ってみても言えることで、心の感性が発達したキリスト教信者が人類の精神文化の発展に大きく貢献したことも間違いないのですが、独善的な信仰によって魔女狩りを行ったり、宗教戦争などを引き起こすとんでもない狂人もやはり同じキリスト教信者なのです。
 私が否定的に捉えるのは、その独善的な信仰を持つキリスト教徒なのですが、最近そのような独善的なキリスト教徒が案外多いことに気付き、キリスト教に対しても以前とは違った見方をするようになったのです。
 キリスト教の負の歴史は芸術文化においても様々あり、それらを知れば知る程、キリスト教に対しては否定的にならざるを得ません。

 さらにキリスト教の聖典である聖書について全く考えを変えるようになったのは、バラ十字会の教本によって聖書が生まれた経緯がはっきりわかったためです。
 エジプト時代の文章に記録された事実として、モーセはファラオ・アクナトンが指揮していた神秘学派に入門した研究者の集団に属していたのであり、アクナトンから一神論を学んだ後に、モーセはこのファラオから、ヘブライ人をイスラエルの地に導くという重要な任務を命じられたのであった。―ということを神秘学を通して初めて知り、聖書に関して謎だった部分が完全に解明されたのです。
 確かにモーセの十戒は神の啓示を思わせる思想的に高度なものですが、聖書の創世記の物語などは科学的に証明された人類の歴史と矛盾するものであり、モーセに纏わる出来事においても現実にはあり得ない奇跡の話も多く出てきます。
 その精神的に高度な部分と明らかに嘘である非科学的な部分が混じっている聖書は果たして神の摂理として生まれたものなのかどうか判断が難しかったのですが、バラ十字会に古くからあった記録からモーセの正体がはっきりわかり、聖書は人間の手によって後から編纂されたものであることがはっきりしたのでした。
 おそらくヘブライ人に一神教を信じさせるためには聖書は有効だったのだと思いますが、物事の真実を探求する人たちにとっては邪魔となる迷信が多過ぎるのです。
 つまり、聖書は人間の宗教的目的のために不完全な知恵から生み出されたものであると考えればすべてが納得できるのです。

 聖書において現代においても意味がある部分というのは精神的な覚醒を促す表現がある一部分であり、他のヘブライ人の歴史などはほとんど意味がないことなのです。
 よって聖書を絶対視することは危険なことであり、人によってはいつまでも無知から抜け出せないこととなってしまうのです。
 バラ十字会の神秘学はユダヤ教や聖書が実際はどのようなものであったか教えてくれることになったのです。

回答感謝 & 業務連絡
神々の黄昏さん、ご回答ありがとうございました。
難しい問題ですが、だいたい分かりました。
感覚としてはよく分かりました。

5年前の火の粉寄稿文では、ユダヤ教やキリスト教ヘブライズムのカタチだけを平面的に描いたにとどまり、最近ではそれに陰影が付き、立体的になってきたという喩えが浮かびます。

モーセが、当時のエジプト神秘学派の高位の達人だったというのは印象的で覚えていましたが、ヘブライ人をイスラエルの地に導く任務をアクナトンから命じられたことは‥‥、そういえばそうでしたか。
そこから旧約聖書の成り立ちに思いを馳せた、と。
重みのある興味深い論考でした。


またそのうち神秘学に関する記事をあげるかもしれませんが(ソウル観とかカルマの法則とか)、その折には、また何かコメントをして下さると嬉しいです。

 ***

《業務連絡》
小説の更新は所用で少し遅れて、来週早々に出来たらと思っています。
今日は意外にも、インポイント保守が午前中のうちに沢山入っており驚きました。入れてくださった方、感謝です。

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