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うまくいかない神学論争 嘆きの信者/龍明小説3-14


龍明小説3-13/不穏の平壌教会 からの続き



     龍明小説3-14


車相淳は金ジョンファの妹の夫で、龍明より10歳年上の人が良い篤実なクリスチャンだ。
教会の執事役でこき使われ、龍明が行きたがらない無理な訪問や、分の悪い渉外に遣らされることが多かった。
(前回より)



 ある時、龍明は車に言った。
 「車くん、きみは誰を連れてきましたか?」
 「は?」
 「は?じゃないよ。ジョンファはインジュを伝道した。インジュはウォンピルを連れてきたんだよ。あんたもジョンファに紹介されて来たんだろ? で、そのあんたは誰を連れてきたのかと聞いているんだ」

 龍明自身は直接街頭に出て伝道することはせず、彼と因縁をもった人が伝道をして新しい人を連れて来ていた。
 車は口籠った。
 「いえ、それはまだ、誰も‥‥」
 「では、おまえに平壌の全キリスト教会を任地として与える! そこから牧師を伝道して連れて来い。分かったな!」


 龍明教祖に発破をかけられた車相淳は、平壌に無数にあるキリスト教会を1つ1つ訪ね回り始めた。

「韓国に再臨があります」
「再臨主は人の子として生まれます」
「再臨主が来ています」
「平壌は第二のエルサレムになります」

 だが、何日経っても思うような実績は出なかった。文ノ教会を認め賛同してくれる聖職者が現れるどころか、手酷く追い払われるのが常だった。


 ある時、平壌神学校が併設されているジャンドン教会という立派な建物を訪れた。そこにめずらしく冷静に話を聞いてくれる牧師がいた。車が話し終え一息ついた時、その牧師が携挙(けいきょ)はあったかと聞いてきた。
 
「キリストの再臨にあたっては、まず信仰篤い信徒たちが、雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会う、
と、テサロニケ1に書いてあるように、
すべてのプロテスタントが信じている、信徒たちの携挙はありましたか? 
主が地上再臨されるのはその後になるはずだが」

 車は答えた。
「主は雲に乗ってくるのではなく、イエス様が2000年前に1人の子として生まれたごとく、肉身をもって、人の子として生まれてきます」

「ん? 携挙や空中再臨はないと? イエス・キリストの再臨が、ただ我々と同じように生まれてくるというのか?」

「もしキリストが、聖書の文字どおりに空中で、神のラッパの音と共に再臨するとすれば、主を信じない人は誰もいないでしょう。
 しかしルカ書17章には、 “彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない” と書いてある。それはなぜでしょうか?」

 車は龍明先生を見倣って、ここぞとばかりに間を置き、タメにタメた。
 そしていよいよ結論の、主は空中からやって来るのではないからです! と言おうと口を開きかけた瞬間、冷静な牧師に先を越されてしまった。

「そりゃ君、その箇所は再臨ではなく初臨のことが書かれている箇所だからな」

 鋭いツッコミを入れられて、車はズデン!とすべった。

 牧師は悠々と続けた。
「再臨の時のことが書かれているのは、ルカ書でいうなら21章だ。
 21章27節で、イエス様ご自身がはっきりとこう言われている。
 “その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る” 」
 
 (ヒェ〜 おかしいなあ。文ノ先生と同じ箇所を引用したのに、先生のように通じないぞ。
 このままで帰っては、また先生に怒鳴られる。やはり先生が言うように、ぼくは信仰も気合も足りないのかもしれない。 よし、負けないぞ、頑張らねば。ここで踏ん張らねば‥‥)

 「あの‥‥、雲とは、清い信徒たちのことで、クリスチャンの中でも清い信徒たちに囲まれて、再臨主は姿を現すのです。清くない信徒にとっては、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになるう」

 牧師はギロッと車を睨んで言った。
「それから8節にはこうもある。
 “たくさんの者が私の名前でやって来て自分が救世主だと名乗り、その時が来たと言う。しかしその人たちを信じてはいけない” 」

車は牧師に向かって言った。
「人の子を裏切る者に災いあれー!」

牧師は言った。
「韓国に再臨主が来たなどは、どうせ聖書で禁じられているまじないや口寄せをする者たちの戯れ言だろう。権威あるキリスト教から、理に適った認知や理解が得られるはずもない」

「あなたがた律法の専門家にも災いあれー。あなたがたは、知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々まで妨げてきたあ!」
車はがんばった。

何回か言い合いが続き、突然、牧師が大きく柏手を打った。すると奥の部屋から、役員だか職員だか、6、7人の体格の良い男たちがわさわさと飛び出して来て、車相淳を取り囲んだ。

 1人が、まだ何か聖書の言葉を言い続けている車の頬っぺたに一発、ビンタを喰らわし、大勢で車の体ごと持ち上げ、力ずくで門の外まで連れて行き、そのまま道路に放り投げた。

       ***

 服も破れ、擦り傷打ち傷だらけでボロボロになって帰ってきた車相淳を、女性食口たちが、アイゴーを連発し大騒ぎして手当てをしている。

 龍明は、心の中でゲラゲラ笑っていた。
 ーーざまあみろ、恰幅のいい紳士が台無しだな。
   車のやつ、余裕こいてんじゃねーよ。


つづく



*文章は予告なく推敲、修正されます。



参考資料/サイト

https://www.tparents.org/Library/Unification/Books/Sm-Early/Chap06.htm

車相淳(Cha Sang-soon)のインタビューより
Moon tried to defuse some of the animosity, sending Cha Sang-soon to explain his teachings to a number of Christian figures. The move met with little success. At the Jangdong Church, when he tried to see Choi Pil-gun, the minister and president of the Pyongyang Seminary, Cha was bodily thrown out of the church by six or seven officials.


ゲラゲラの転用:
https://六マリアの悲劇.com/わが父文鮮明の正体-洪蘭淑-3/
文鮮明は「ブラック興進」の殴打について、「イーストガーデン」まで聞こえてくる報告を楽しんでいたように見える。だれか嫌いな人間がとくにひどく殴られると、げらげらと笑った。



「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」(金元弼 著)より

先生は、再臨主は雲に乗ってくるのではなく、イエス様が人の子として生まれたごとく、人の子として生まれるという原理だけを教えました。

霊能者たちは牧師から雲に乗って再臨すると教えられて信じているのですが、神は「絶対に雲に乗ってこない」と啓示するのです。イエス様が二〇〇〇年前に一人の子として生まれたごとく、肉身をもって必ず来ると教えてくれたのでした。同時に、韓国に再臨すると教えられていました。当時、特に平壌は、第二のエルサレムになるという啓示を受ける人がたくさんいました。

反対された理由の一つは、神の啓示の意味はよく知っているのですが、霊能者たちは聖書を通して説明が十分できなかったからです。もう一つは、初期の人たちの伝道は結果をまず先に立てて、特に「再臨主が来ています」というようなかたちで行ったのでした。それで大変な迫害に遭ったのです。

先生は直接街頭に出て伝道されたのではなく、先生に出会った人が伝道をして連れて来ていました。
(引用終わり)






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コメント

文鮮明が聖書的見地からメシアとは言えない理由
マタイによる福音書24章36~44節。ここには有名な盗人のたとえが出てきますがこの聖書箇所はキリストの空中再臨のことを指している箇所です。

つまり、空中再臨はいつ来るかわからないというわけです。

しかし、地上再臨はある出来事が起きれば時期は特定されます。
ダニエル書9章27節に次のとおり書かれているからです。

27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。

彼とは反キリストと呼ばれるものです。この反キリストがイスラエルと契約を結んでからの7年間が大患難時代と呼ばれる人類史上最大の危機が訪れますがその最後にキリストの地上再臨が起きると聖書に書かれてます。
故に地上再臨については時期は特定できるのです。

そして、地上再臨の時の様子を表す聖書箇所としてマタイ24章27節に「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」と書かれていますがこの個所の意味は稲妻が閃き渡るように瞬時に誰でもメシアが再臨したと分かるであろうと理解されています。文脈状そう解釈することは妥当であると思われます。

つまり、多くの人がメシアと認めない文鮮明はそれだけで地上再臨のメシアとは言えないのです。
Re:文鮮明が聖書的見地からメシアとは言えない理由
kimagure-orさん、コメントありがとうございます。

貴兄の以前のコメントをヒント・きっかけ・参考にさせていただき、小説の一場面を書かせていただきました。

また、今回のコメント中にあるマタイ書などの箇所を読んで、「雲に乗って来る」は地上再臨に関することだと分かりました。
(マタイによる福音書/ 24章 30節
その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。)

いやあ、聖書の言葉で空中再臨と地上再臨を区別するのは難しい。なぜ難しいか、たった2種類のことで単純ではないかと頭では思うのですが、統一教会でそれをごちゃごちゃにして還暦過ぎまでその点に関してはそのままで来て、もう団子状態ですから。
実際は、初臨と空中再臨と地上再臨をごちゃごちゃにしていたので、2種類ではなく、3種類です。3種類はきつい。
というか、分けるんだという概念自体が、長年の慣性の凝り固まりから慣れるのが難しい。でも新しい事を学ぶのは楽しいことです。

題名の「うまくいかない」は小説的にもそうで、神学論争(にもなっていない?)論争は難しく書くにも時間がかかり、私にはこれ以上は無理です。

「雲に乗って来る」が、空中再臨か地上再臨のことか分からないまま書いたので、空中再臨(携挙)はありましたか?と聞かれた車(Cha)が

「主は雲に乗ってくるのではなく、イエス様が2000年前に1人の子として生まれたごとく、肉身をもって、人の子として生まれてきます」
と、地上再臨のみことばで答えたのは筋違いということになりますが、統一信者はこういう風にごちゃごちゃにしているという表現として、そのままにしておきます。
車は牧師経験者とか書かなければよかったな(笑)


しかし、ダニエル書での「雲に乗って」のくだりは初臨のこととしても読めるのでしょうか?
原理講論に書いてあったような気がしますが。
でもまあこれ以上は限界です。

ひとまずありがとうございました。

いろいろ
聖書的、キリスト教的にきちんと見れば、「文イエス」「文鮮明キリスト」は再臨のメシアと言えるはずもない状況なのに、よくゴリ押ししてきたものだな。

イエスの再臨ではなく、文龍明の初臨でしょう。
(誰でも、その人の初臨です)

参考資料の車相淳のインタビューからの記述では、「6、7人の教会職員から体ごと放り出された」としかありませんが、ビンタの件は松濤本部前暴力男事件から加えてみました。

最後の方で、車が破れかぶれで、裁きのみことばをアジるのは、同じく松濤前メガホンで幹部をサバく澤田地平氏のアジ演イメージの混合です。

>「人の子を裏切る者に災いあれー」
「あなたがた律法の専門家にも災いあれー。あなたがたは、知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々まで妨げてきたあ」
お問い合わせの件ですが
>ダニエル書での「雲に乗って」のくだりは初臨のこととしても読めるのでしょうか?

「雲に乗って」というと、どうしても孫悟空の筋斗雲をイメージしてしまいますがこの雲は神の栄光の臨在を表す現象のことで我々プロテスタントクリスチャンは「シャハイナ・グローリー」と呼んでいます。

例えば旧約聖書ではイスラエルの民が荒野を旅する時、昼は雲が、夜は火の柱が彼らを導きました。
この「雲」も「火の柱」も神の栄光の臨在を表すもの、つまり「シャハイナ・グローリー」です。

イエス・キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、新約聖書では7箇所使われています。マタイ24:30、26:64/マルコ13:26、14:62/ルカ21:27/黙示録1:7、14:14(ここだけは御使い)。
新約聖書では「雲」という語彙が25回使われていますが、複数で使われているのは、以下の7回です。後の18回はすべて単数形です。「雲」が複数形で使われる時には(ルカ21:27を除いて、ルカだけは「雲」をすべて単数形で使っています)、決って、キリストの再臨(空中も地上も同様に)のことに関係しています。
「雲」を単数形と複数形を区別して使い分けているのは、マタイとマルコ、そして使徒パウロとヨハネです。以下は「雲」が複数形で使われている箇所です。
●マタイ 24:30、26:64
●マルコ 13:26、14:62
●パウロ Ⅰテサロニケ 4:17
●ヨハネ 黙示録 1:7

話が最初に戻りますがつまり「雲に乗ってくる」という記述部分は初臨のこととは読めないです。

>あの、雲とは、清い信徒たちのことで、
上記に上げさせていただいた雲という記述部分から文脈上、清い信徒と読み取れる箇所は一箇所もありません。
故に、統一教会の解釈は間違いです。
こんなこと素人クリスチャンの私でも分かることです。
追記
雲の表記が単数か複数かは原語では分かるのですが日本語表記の聖書では書き分けられていません。
全て「雲」です。

Re: お問い合わせの件ですが
kimagure-orさん、
貴重な興味深い考察をありがとうございます。

以下は、私の独り言(言いたい放題)のようなものですので、読み飛ばしてやってください。

「この雲は神の栄光の臨在を表す現象」とのことで、単なる比喩象徴ではなく、現象ということは、雲という物理的実体も伴って現れて、人の目には雲に乗っているように見えると。

旧約聖書(ダニエル書etc)で、「雲に乗ってくる」という記述部分が初臨のこととは読めない論理が見えないですが(新約聖書では分かりました)、原理講論では推測だと言っているので別にいいです。

原理講論 再臨論より
「イエスの初臨のときにも、多くの学者たちは、メシヤがユダヤのベツレヘムで、ダビデの子孫として生まれるということを知っていたのである(マタイ二・5、6)。しかし一方、ダニエル書に「わたしはまた夜の 幻  のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル七・13)と記録されているみ言により、メシヤが雲に乗って降臨されるかもしれないと信ずる信徒たちもいたであろうということは、推測するに難くないのである。」


原研の時、聖書通読の条件を立てて、9ヶ月ほどで完読、苦にならず。それだけは良かった。
旧約が面白かったことを思い出しました。神話として物語として豊潤。

旧約聖書を「雲に乗」で検索すると3件がヒット。

ダニエル書/ 07章 13節
私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。

申命記/ 33章 26節
「エシュルンの神に並ぶ者はいない。/あなたを助けるために天を駆け/威光に満ちて雲に乗られる。

イザヤ書/ 19章 01節
エジプトについての託宣。/見よ、主は速い雲に乗って/エジプトに来られる。/エジプトの偶像は主の前に震え/エジプト人の心は挫ける。

早く移動できますよーというアピール。
この辺りは確かに初臨のことを表しているとは思えない。エホバ神のことだな。

でもエジプトはすばらしい精神遺産がありますけどね。
エホバ神がやって来る以前の長い長い女神の歴史時代も大変興味深い。


>あの、雲とは、清い信徒たちのことで、

これも統一でよく聞かれる解釈ですが、小説のこの部分、私としては当然統一側の勝手な言い分だと思って書いているわけですが、もし一般の人、聖書はよく知らない日本の普通の人などが読んだ場合、車は何かそれなりに反論できているように読めてしまい、状況の判断がはっきりしない曖昧模糊とした感、モヤモヤ感が残る部分かもしれないと思いました。
きっとそういう部分はたくさんあるのだろうと。

あまり解説を入れすぎずに登場人物が自由に動くのが小説の醍醐味かと思いますが、こういう場合非常に難しいです。やはり「うまくいかない」、いってないところがあるのでしょう。

車はこのセリフを言った後、間髪入れずに破れかぶれになり裁きの言葉を言い始めているので、明らかにおかしい、と読んでいただきたいところですが。
一般に分からなければしょうがない。
もっと理性で統御せねばならないのか。
まあ練習、練習です。
付け加えました。
最初の部分に、二段落を付け加えました。


追加部分:

龍明は車に言った。
 「車くん、きみは誰を連れてきましたか?」
 「は?」
 「はじゃないよ。ジョンファはインジュを連れてきた。インジュはウォンピルを連れてきたんだよ。あんたもジョンファが連れてきたんだろ? で、そのあんたは誰を連れてきたのかと聞いているんだ」

 龍明自身は直接街頭に出て伝道することはせず、彼に出会った人が伝道をして新しい人を連れて来ていた。
 車は口籠って言った。
 「いえ、それは、まだ、誰も‥‥」
 「では、おまえに平壌の全キリスト教会を任地として与える! そこから牧師を伝道して連れて来い。分かったな!」





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